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父の遺品

女川へ行ってきました。
色々と話したいことはあるのですが、今日の1番嬉しかった奇跡の話を。

父のポートフォリオが津波に流されずに残っていたんです。
サンファンバウティスタ号の船大工を撮影した銀塩プリントがファイルごと残ってました。
どなたが拾って総合体育館へ届けて下さってたんです。

私たちも同時に、家付近で拾ったどなたかの思い出アルバムを届けに行ったんです。
「どこで拾いましたか?」
「佐々木写真館の近くです」
「あら、もしかして写真館の方?そちらの写真も届いてるんですよ。」
と言って、手渡されたのがポートフォリオと姉の結婚式のスナップ写真。

ポートフォリオの状態は七割が水洗すれば大丈夫なような、あの泥水だとダメかもしれないけど。
東京に戻ったらトライしてみます。
もともと、このポートフォリオは、父が撮影し、後年私がプリントしたものなんです。つまり最初で最後の共同作品。


このシーンをテレビで取材されました。
明日、29日のTBS朝ズバで8:00頃放送されるそうです。
可能な方はぜひ見てくださいね。
by monchicamera | 2011-03-28 23:31

女川に帰省します

明日3/27(日)、姉のいる仙台へ。
翌日3/28(月)、姉と義兄と一緒に女川へ。

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「女川へ行ってくる」のではなく「女川へ帰省します」。
だって、私の故郷だもん。実家がなくなっても、ふるさとには変わりない。
両親がいなくても、私を育ててくれた町の人たちはたくさんいる。
その人たちを励ましたいし、「生きててくれてありがとう」という気持ちを伝えたい。


昔、うちのご近所さんだったお姉さん(現在は仙台へ嫁いだ)からの電話。
「新聞やTVで見るより町の壊れ方がすごすぎて、涙しかでてこないよ。しっかり覚悟して行っておいで。」と言われた。

覚悟ってどういうモノなんだろう?
わかるようで、わからない。

故郷はそんなにも私に冷たいのか、昔のように温かくはないのか。
裏切られたような気持ちになるのか。女川がどれだけ崩壊して、実家もどうなっているのか写真で何度も見たが、「この目で見る」というのは、そんなにも違うのだろうか。

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両親のことについては、とっくに覚悟はしている。
10日前に姉が色々な人に会って、地震発生当時の両親の様子を聞いてきた。
助かっている可能性は極めて低いこともその時知った。

それを人にどう伝えて良いか迷ったし、自分でもその事実を認めるのは嫌だった。私と違って、生きているのに電話連絡がとれないだけの人も大勢いるから、そういう人たちの希望を失わせたくなかった。だからブログには書けなかった。

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最初の日、たくさん泣いて、旦那とたくさん話し合った。
仕事を放り出してただ泣いてばかりいる私たちを両親は喜ぶだろうか?
働ける元気な体があるのに何もしない私たちを両親はがっかりするのではないか?
「親は先に死ぬんだから、しっかりと自立しろ」と言っていた両親の言葉を思い出す。
冷たい海に消えていったことを悔やむより、ちゃんと天国に行けるように祈った方がいいのではないか?

色々と考えて行く中で、「写真で一生食べて行く」という強い決意ができた。
自分の中で整理が出来て、少しだけ楽になれた。

諦める勇気というものも、時には必要なのだと知った。
どうせなら、こういう強い私をしっかりと両親に見てもらって早く安心させたい。
素晴らしい結婚式も見せてあげられたし、無事にお嫁に行けた事だって喜んでいるはずだもの。

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津波から2週間が経つ。
今度は、体を探すという大仕事が待っている。
正直、こちらの方がつらい。
by monchicamera | 2011-03-26 19:13

加藤登紀子 被災地へのメッセージ 「今どこにいますか」

この曲を全ての方に送ります。

大好きな歌手加藤登紀子さんと、twitterで知った報道カメラマン冨田きよむ氏のコラボ。歌も歌詞もすごく心に響くし、取材先の写真も報道されない被災地の一面を見る事ができます。

「無理にがんばらなくてもいいんだよ、現実は現実で受け入れて、明日は生きましょう」っていう風に私は受け取りました。


by monchicamera | 2011-03-25 20:44

エスペランサ(希望)

スペイン語の勉強を本格的に始めて2ヶ月が経つ。
徐々に文章が読めるようになっていたのに、この津波の件で勉強がストップしていた。
本日レッスンを再開。やはり「学ぶこと」って楽しい。
10代の頃よりも、興味や目的がある分、楽しく覚える事ができる。
「学び」は裏切らない。そして自分の財産になる。

私がスペイン語を学ぼうと思ったキッカケは、メキシコを旅するようになったから。
カナダ滞在後、メキシコにちょっと寄ってみたら、思いの外ハマってしまった。
先住民の系統は、顔立ちも私たちモンゴロイド系で似ているし、何しろスペイン語の響きが女川弁にそっくりだったのだ。

「あんだぁ、こいず、うめがら食べでみだらいっちゃ(あなたこれ美味しいからどうぞ)」
濁点が多い、ズーズー弁の漁師言葉みたいな響きが、メキシコで聞けるなんて感激だった!
ラテン系独特の人情味あふれる、そしてちょっと田舎へタイムスリップした感覚も、女川に似ていた。子供の頃過ごした、活気あふれる女川(原発が出来る前で人口も多かった)を味わえることが、私にとってメキシコの魅力だった。

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メキシコの友達からメールが届く。それがスラスラと読めるようになった。
animo(がんばれ)とesperanza(希望)って言葉が書いてある。
応援の仕方というか、感じ方というか、そういうところもメキシコの人は似ている気がする。

ちなみに、esperanza(希望)は、esperar(待つ)という動詞から派生した言葉。
待つ事が希望に繋がるなんて、なんて素敵な言葉でしょう。
みなさんに、送ります。Esperamos!(希望を持ちましょう!)
by monchicamera | 2011-03-23 17:48 | 311とその後

大事にしたい話し方・伝え方

【災害・緊急時 大事にしたい話し方・伝え方】というのが載っていました。
あらゆる面から、書かれています。被災にあった方、その家族、それを応援する側、どの方でも参考になると思います。当たり前だと思っている事も、改めて読んでみると参考になります。一度目を通してみてください。

私自身、色々な方からメールや電話を頂きました。自分から連絡をする場合もありました。以前として「行方不明」との情報を伝えるのは心苦しかったのですが、この記事を読んで少し反省点も見えてきました。メールであれば、考えながら文字を書く事ができますが、電話だとテンポ感がつかめないし、互いの意図する事も伝わりづらいです。


私のような前向きな性格(完全に親譲りですね、笑)だと「ハッキリ物事を伝える」ことに重点を置いてしまいがちです。相手によっては「話すのがやっと」という精神状態の方もいらっしゃいます。それなのに、ちょっと攻撃的すぎる口調でお話してしまったかもしれません。声のトーン、伝えるべき内容、言葉の選び方、全てにおいて配慮が足りなかったと反省しております。次からは気をつけようと思っています。


3/22現在では、twitterなどの情報によると、女川の一部では、衛星電話が来たり、auの電源車が来たので通話が出来きて安否確認ができるようになったご家族もいらっしゃるようです。よかったです。

もしこれを読んでいて、家族や親戚や知り合いの方に安否確認の電話をする際は、気を付けてください。もし結果が良くても悪くても、しっかりを話を聞いて受け止めてください。電話をした相手を責めないでください。相手の方もすごく辛いはずです。そういう電話を一日に何本も対応しなくてはならないんです。思いやる気持ちを大切に。


3/21昼の河北新報ニュースでは、【宮城・女川町の6324人生存確認 「孤立」解消へ】と出ています。遠隔地の避難所の状況もわかるようになってきました。


その一方で、宮城県警によると【犠牲者の所持品等から推察される氏名等事項一覧】があります。
私がお世話になった方や、同級生の名前も見つけました。残念ではありますが、彼らが安心して天国に行けるようにお祈りしてあげることも、私たち残された者ができることです。


女川関連の情報発信として、ブログやtwitterを書いてきました。
震災から12日。興味のない方はもう読んでいないだろうし、我が家との関わりのある方、同じ故郷の方は、引き続き読んでいると察します。各地から応援のメッセージ、心にしみました。疎遠になっていた方々、父母の同級生のみなさんからも連絡があり感謝してます。ここでみなさんと知り合えたこと、ご縁だと思っております。今後とも発信していこうと思っておりますので、よろしくお願いします。

私と直接コンタクトを取りたい方は、非公式コメントでメールアドレスを記入してください。また、個人情報を書かない場合は、このブログを訪れる人も見れるように公式コメントで記入してください。

Have a nice day! (素敵な一日を過ごしてね)
by monchicamera | 2011-03-22 13:34

村上龍のニューヨーク・タイムズへの寄稿文

村上龍さんの記事。そうね、やっぱり希望よね。希望が足りないよね。
震災がおきなくても、うすうす気がついていたけど。
今の日本は何かおかしい。

宮城も岩手も福島も、食の宝庫だった。水田は海水が混じったから当分ダメ、魚も戻って来ない。いつまた復活するかわかないけど、当面は日本の自給率を回復できないよね。

食料問題は前から指摘されてたけど、ここにきて「オイルショック」を彷彿とさせるような「非常食ショック」が起きている。東京では、パン、卵、カップ麺だけがない。トイレットペーパーとかも品切れ。そんなにみんなパンが好きだったっけ?そんなにウンコってするの?って聞きたい。

非常用に備えて・・・って思う気持ちはわからなくもない。
水や乾パンや懐中電灯を入れた「非常バック」なんて、津波が来たら、あんなもの持って逃げるひとがいるのだろうか?

ガソリンがない状態も、非常につらい。
物資を届けるトラックもうまく配達できてなかったりする。

震災が予想を超えているし、原発の問題も出て来たというのもあるが、日常レベルで生活出来る人まで慌てているのはおかしい。


今わたしたちに出来る事は、限られている。
そういう時こそ、人とのつながりを大事にしてもらいたい。

仕事がキャンセルになってしまった人は、お休みの時間と考え、あなたの大事な人と過ごしてください。家族や恋人や友達と。疎遠になっている人に「元気ですか?」って電話やメールをしてみるのもいい。ご近所さんと挨拶をして交流を深めておくのもいい。災害時には助け合えるから。

とにかく、人と人が繋がって行くことが大事だと思う。
by monchicamera | 2011-03-18 20:19

振り出しに戻りました

女川の両親が3/15に目撃されたという情報は、完全に誤報でした。
姉が女川入りし、裏のお兄さんにも会いました。
確認したところ、震災後は姿を見てないようす。
喜びもつかの間、振り出しに戻ってしまいました。残念ではありますが、待つしかないですね。

家のあった場所は、あの津波にもかかわらず、家の一部である暗室が残っていたとのこと。
セラミック素材のレンガで囲まれた1階南角の暗室は、壁が固かったので形を残していたようです。引き延ばし器もあったようです。父のポロシャツと、母のジャンパーも落ちていました。店の古い看板も出て来たようです。あの津波で残っていた事が奇跡のようです。

あの悲惨な跡地に、わざわざ足を運んでくれた姉、立ち尽くす姉をしっかりと支えてくれた義兄に感謝をします。

みなさまにご迷惑をおかけしましたが、詳しい事がわかったらまたここに書きます。
期待を裏切ってしまってすみません。

また安否確認ができず、不安で押しつぶされそうな方もたくさんいると思います。
一緒に祈りましょう。そして乗り越えましょう。世界中が応援しています。
by monchicamera | 2011-03-17 18:41

津波の恐怖 女川での体験話

女川の津波にあった方の体験談を紹介したいと思います。
彼女は地震直後、女川一中に逃げ込み、まさに九死に一生を得ました。
彼女の見た世界とは・・・。この文章を読んだとき、涙が止まりませんでした。
自分が通った中学校から見た景色が地獄絵だなんて想像がつきません。
辛いけど、生の声を聞いて、この津波と正面から向き合う事も必要だと思いました。
そして、私たちは津波の恐ろしさ、家族の大事さを伝えていかなければならないと思うんです。
忘れて欲しくないので、ここに転載させていただきます。
深呼吸をして、ゆっくり、読んでください。

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『3月11日、女川町 』 松川真子(19)mixiネーム:海がみたい さんより
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私は女川町から 石巻市、涌谷町、美里町を通って仙台市まで避難してきました。

私一人の情報なので量は少ないですが、全て報告したいと思います。

まず先に・・・
女川は、石浜、宮ヶ崎、大原、清水、鷲神は全壊と考えていいと思います。
旭ヶ丘は津波の被害はありません。


私は女川で地震にあいました。
地震後すぐに警報がなり、慌てて車で第一中学校まで祖母と避難しました。
その時点での大津波警報では、津波は3mということでした。
警報から15〜20分後、海面が上昇し始め、海岸から徐々に水が広がっていき、最終的には鉄砲水のような勢いで津波が押し寄せてきました。
バキバキという音と爆発音がなり続け、海水が女川町全体で渦を巻いていました。家も駅も生涯教育センターも、全部水の中で、姿もみえなくて、幼稚園があったはずの方向には海岸から流されてきた船があって、家がそのまま水に流されて浮いてた。みんな渦の中。津波は中学校の海側の坂の半分くらいまできていて、避難してそれを見つめていた人たちの肩には雪が積もってきていました。

ラジオなどでは10m程度などといっていますが、
実際にきた津波は30mちかくあったのではないかと思います。

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津波は清水の奥まで届いており、本当に見える場所すべてがのみ込まれていました。高台にある町立病院の1階まで水が押し寄せて、駐車場にあった車は全て巻き込まれていました。
逃げ遅れた方も多かったと思います。家の2階や、奥のほうに住んでいた方などは、安心しきっていたかもしれません。
全てがのみこまれていました。

津波が来ている最中も強い余震が続き、中学校のグラウンドも地割れがおき始めたため、総合体育館まで移動しました。
初めは体育館も窓ガラスが割れるなどの被害があったため閉鎖されており、小学生などは芝生の坂の上にテントをはり避難していました。
雪が強くなっていたので私は車の中で暖をとっていましたが、ガソリンがなくなりかけていたので体育館のほうへ向かいました。
私が向かったときにはすでに開放されており、入り口付近では掃除用具などを入れるロッカーを横に倒しそのなかで体育館にあったプラカードや椅子などを燃やし、火をおこしていました。
ケータイは圏外、電気もガスも水道もとまっていました。
自家発電で多少の明かりはありましたが、薄暗く、窓ガラスも割れているため冷たい風が室内にも吹いて、とても眠れる状況ではなく、毛布を持ち込んでいる人もいれば、私たちのように体ひとつで逃げてきた人たちも大勢いて、寒さでほとんどの人が眠れずにそれぞれが寄り添って被害状況の報告をし合っていました。

両親を探す人。
津波にのみ込まれ、泣く泣く親の手を放した女性。
妻が目の前で流されてしまった男性。
子供を失った人。
人が車ごとのみ込まれていくのを目の前でみてしまった人。
津波がひいた後、家族の死体を見つけた人。

様々な方がいました。
自分のことで精一杯で、目の前の「助けて」の声にも、こたえられないんです。

私も地震直後のまだ電波が届いていたときに母と弟とは連絡が取れていましたが、父とは連絡が取れず不安でたまりませんでした。
1日目は何も食べることが出来ませんでした。
一晩中余震が続いていました。

2日目、早朝に「玄関にお父さんが来ている!」と言われ、駆けつけると顔中傷だらけの父が立っていました。涙があふれました。
津波に遭遇しながらもなんとか逃げ切って隣の小学校で一夜を過ごし、私と祖母のために山を越えて体育館まで来てくれたそうです。

ほかに何人も他の避難所から体育館に次々と移動してきて、体育館は人があふれていました。

昼ごろに初めての配給があり、お椀に半分のスープを食べることが出来ました。具はほとんどありません。

昼間、父と津波が引いた後の町を見に行きました。
更地になっていました。そこら中瓦礫の山です。
自宅も会社もなくなっていました。というか、土台だけです。


アルバムに写真がアップしてあるので、見ていただければと思います。

夜になり、道の側溝の網を焚き火の上にかけて、そこで拾ってきた魚を焼いていました。
子供や老人が優先されていましたが、ほとんど早い者勝ちで、私は最後に運よく食べることが出来ましたが、食べられなかった方もいたと思います。
地震があってから、まともな食料をほとんど口にしていなかったので、本当に夢中で食いつきました。本当に涙が出そうでした。

避難所は悲惨でした。
町の生臭さと、人の息、煤のにおい。
もちろんトイレも仮設のもので、そのちかくで人がひしめき合っているんです。夜は足をのばすことも、寝返りをうつこともできません。家族と連絡が取れていない人がほとんどで、食べ物もなく、みんな苛立って。

女川を一通り歩いてきましたが、本当に酷い。
被害を受けたところは、もう跡形もありません。

その後、私と父はケータイの電波が届く地域まで避難することができ、そこで母たちと連絡を取り合って、祖母も迎えにいき家族5人全員で再会することが出来ました。

今は家族全員、仙台に避難しています。
居場所がある。毛布がある。寝るところがある。
これだけのことがこんなにも幸せなことなんだと実感しています。

仙台に避難してきた日、朝から何も食べておらず、
夜に暖かいお米を食べて、心から幸せだと思えました。

水が飲めるし、お米がたべられる、本当に幸せなことなんです。

しかし、仙台でさえ食べ物が不足しており、街中のひとが食料や水を求めてスーパーやコンビニに列をつくっています。
逃げようにも、ガソリンもありません。
流通も止まっているため、在庫がいつまでもつかも分かりません。

朝から食料集めで走り回っています。
仙台ではまだ電気も復旧せず、断水が続いている地域もありますが、
女川より、余程ましです。
困っているのは同じだし、同じように苦しんでいるのはあたりまえです。
被害の大きさで図るのは嫌だけど、だけどもっと酷い地域がある。

女川だけではありません。
もっと酷い地域があります。

人が沢山死んでいます。

飲み物も、食べ物もなくて、暖をとる手段もない。
助けの届かない孤立した地域です。

家族が誰一人欠けなかったこと、
私たちは本当に運がよかったんだと思います。奇跡です。
いま、暖かい寝場所があります。
食べ物も少量だけど何とか確保できています。

励ましのメールや電話が、本当に嬉しい。
本当に支えになっています。ありがとう。

みんなありがとう、心配してくれて。
もう言葉にできません。


宮城県民、とくに女川町の情報は私が知っている限りのことを伝えて生きたいと思います。
女川はいま、瓦礫の撤去作業も進められていて、女川の外に出ている人もいます。しかし、ほとんどの人はまだ体育館で生活していると思います。

メッセージください。
女川にいる家族のことでも親戚のことでも、知っている情報は全て差し上げます。


被災地の方、頑張りましょう。
いま、私たちには何もありません。
これからどうやって生活していけばいいかも分かりません。
すぐに助かる保障もありません。

先のことは何も見えないけれど、いま生きていることに感謝です。
そう考えて、いまは踏ん張るしかないんです。

家族との連絡が取れない方

被災地では、3ヶ月近くは連絡が取れないかもしれません。
だけど、絶対に無事な人もいます。
連絡がつかなくても、絶対にあきらめないでください。
by monchicamera | 2011-03-16 16:57 | 311とその後

女川、生存者ぞくぞくと…

昨日あたりから、女川の方々の生存情報がいろいろと出てきました。
個人的に「俺の親がみつかった!」とか電話をもらったり、知り合いの知り合いの・・・とまた聞きだったりするので。私が混乱するくらい、友達の家族や知り合いの方の安否が確認されています。

今言える事は、連絡が取れないほどんどの人は「女川のどっかで生きている!」って事です。「未だ安否が不明な人は女川で5000人」と3/14付のニュースで報道されましたが、それは公式に発表された数字。ニュースというものは正確な数字、また情報源はどこからなのか把握された情報でなければ、表に報道されません。

では、「公式な数字って何?」とよーく考えてみてください。
普通に考えて「役場の人がちゃんと名簿で確認した名前」の人数じゃないですか?
次に「ちゃんと名簿で確認し…」っていうのは、どこまで「ちゃんと」だと思いますか?

同級生たちの話や、現場を聞いてると、
「○○さんの車で石巻まで来たんだ!」とか「避難所で待ってるのも面倒だから自走で出てきた」とか「○○さんの家は無事だったから泊まらせてもらってた」とか「息子が迎えにきたから、とりあえず仙台に行くわー」とか。書いてて、女川っぽいなぁ〜と笑っちゃうけど。そういう現状です。


女川脱出する人が、わざわざ役場の人に「転出届け」ならぬ「脱出届け」を出しに行くとは考えにくいです。みんな各自生きる事に必死だから、勝手に行動をしている結果、正確な数字が把握できないのだと、私は推測します。

もちろん公的な避難所に居た方は、事務所に声をかけてから出ると思いますが、その事務所だってどの程度機能しているのか…。また、家が無事な人(津波を逃れた地域)は避難所に入れず、自宅待機状態になっているとも聞きますし、わざわざ何キロも離れた総合体育館へ行ったりしないと思います。

そういう意味では「公的な発表されている数字」はとても曖昧です。
3/15付けのニュースにあるように「南三陸町で2000人無事確認」とあります。
急に2000人もの人がぴょこーんと発見される訳もないですから(笑)徐々に部落を回って情報を集めて、名簿をつくって、それを(何日かかかって)合計して2000人。たぶんそういうことです。

付け加えていいますが、役所仕事を非難しているわけではありません。物資がようやく届いたなんて言っている状況なので、事務処理っていうのはものすごく後になるんだと思います。みなさん各自の仕事を寝る間も惜しんで必死で行っていると思います。また無事だった部落へ行くのも、瓦礫の山を何キロも歩いて行ったり、道路が寸断されている地域へどうやって向かうのか…かなり不便な状況だと思います。


だから希望を捨てず、根気よく待ちましょう!

辛くなったら、女川の人たちの明るい性格をイメージしましょう!
「腹減ってねーが?ほれ、ごはん食べでげ!」って近所のひとが心配してくれる土地柄です。いまだに、味噌醤油を近所の人に借りに行ける田舎町です。

だから、きっと大丈夫。もう少しです。がんばりましょう。


このブログが、多くの方の目にとまり、同郷の方の励みになれたことを嬉しく思っています。ただ私は遠隔地から、PCの前でずーっと情報を得て、少しずつ整理している状態です。コメントを寄せていただいた方のお力になれず、すみません。情報が分かれば書き込みをしますが、その場合は非公式にしてメールアドレスを書いてください。

私の情報源は、twitterで「女川」と検索したり、ハッシュタグ #save_miyagi_onagawaで検索するか、 #onagawaのどちらか。またmixiの「宮城県牡鹿郡女川町総合情報」というコミュ、あとは女川に行った知人の話などです。


最後に、私の親戚、父のお世話になっている方々へも充分に連絡ができず、こちらのブログを読んでもらうだけの状態で申し訳なく思っています。この場を借りてお礼を申し上げます。どうもありがとうございます。
by monchicamera | 2011-03-16 12:52

誤報でした。

裏の家のお兄さんが見かけたという証言を得ました!
33年間生きていて、こんなに嬉しい事はありません。

滞在先はわかりませんが、明日3/16、仙台に住む姉夫婦が現地入りして探します!
とりあえず良かった。祈ってくださったみなさん、どうもありがとうございます。

そして、このブログやtwitterにコメントを書いてくださったみなさん。
父母のことをよく知っているみなさん、ご心配おかけしました。
私も早く会いたいです!

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3/17現在。
目撃情報は誤報でした。
姉がそのお兄さんに直接会って聞いた所、まったく見かけてないようです。
ぬか喜びな情報になってしまってすみません。
捜索は振り出しに戻ってしまいました。
by monchicamera | 2011-03-16 00:52